どこまでも透き通る深い蒼色を湛えた穹と、
どこまでも広がる綿のように柔らかな雲の海。
そこにぽつんと白い衣を輝かせて舞う天使―いや、妖精。

それを見る者は其処を此の世とは思わなかっただろう。
ある意味それは確かに一つの境。
空と宙を分かつ一つの境界。
そしてそこに本来在るべきでない、
ひとりの翼を持つ妖精。

全ては何者かの手によって歪まされた春の所為だった。
春を告げるために生まれた妖精は、
告げるべき春を見出せなかった。
だからそれを求めて彼女は、高く、高くへと翔んできた。
春の匂いに誘われて。
光に誘われる虫のように。
あるいは夢に誘われる人間のように。

だが、それももう限界に達しようとしていた。
刺すように冷たく薄い空気と強い光に晒されて、
彼女の体は弱り切っていた。
妖精はそのあるべき場所から遠く遠く離れ過ぎていたのだ。
本来彼女は、新しい命が芽吹き美しい花々が咲く、
瑞々しい春の力溢れる大地の近くに生きるものなのだから。

―……せっかく…。

折角春を見つけても、もう。
随分前から、もはや視力は殆ど失われていた。
何も聞こえないのは、そこがあまりに静かな世界だからなだけではないだろう。
翼ももうその力を失い、重たげなその羽ばたきは
もはや浮かんでいるだけでやっとだということを示していた。

もう、あの大地には帰れない。
彼女は春を見つけた喜びの余り、遠くに来すぎてしまったのだった。

眼下に広がる綿の海。
その柔らかさに包まれられるなら、
彼女の本来在るはずだった春の花畑のように安らげるだろうか。
そんな優しげで静かな雲の水面を騒がして、
突如現れるは黒き衣の少女。
箒に腰掛け軽やかに、空を駆ける魔法使い。
少女は瀕死の妖精に気づき、静止する。


だが妖精の目にはもう、その姿は写らない。
でも、匂いがする。
その匂いは彼女には間違えようもない匂い。
春の匂い。
春を持った誰かが、春を喜ぶ誰かがそこにいる。

ならば。
此処まで来てようやく見つけた春を。
―伝えよう。
この命の終える前に。


妖精が腕を広げる。
その全身がぼおっと光り、
暖かい光があたりを満たすと、
次第に色づき、花びらの形を取り始める。
そこに咲きあらわれるは花。
紺碧の空と白い綿の大地がどこまでも続く、
世界の狭間に開く可憐な一輪の春の花。

その花は彼女が好きな花を模したもの。
誰もが忘れ去ってしまっているけれど、
心の奥にそっと咲く、名も無き小さな春の花を。
これが彼女にとって一番の春のゆめ。
消えてしまいそうな意識の中、
想い浮かぶ、たった一つのゆめ。

―春が来たよ。

だが、花はあっという間に崩れると、
その花びらを散らしてしまう。
残された僅かな力を振り絞って咲かせた花なのに、
妖精にはもうそれを保てるだけの力は無かったのだった。
それどころか自分の体を支える力さえ。

―届いて…。

落ちていく体をどうにか引き留め、妖精は見えない相手に希う。
その想いが散りゆく花びらに伝わったのか、
花びらは少女の方へ、方へと向かい、
空をゆっくりと流れていく。
その様はひどく弱々しく、頼りなげで。

―春が…来た…よ。

妖精は再び空にその光を広げる。
己が身を削って咲かせる花を。
己が身の内の春を…自分の命を花びらにして咲かせる花を。
それが今の彼女に出来る精一杯の、唯一の伝え方。
その痛々しいまでの想いが、
相手を傷つける刃となっていることも知らず、
ただ必死に、彼女は花を開く。


しかし、いくら美しい花を咲かせようと、
目の前にいるはずの誰かは何も応えない。

―届か…ない…
春の匂いは、まだ変わらずそこにあるのに。
届いたのなら、なにか…応えて。

だが…
もう妖精の目には何も見えないのだから。
もう妖精の耳には何も聞こえないのだから。
少女がたとえ応えたかったとしても―
それはもう、妖精には届かない。

―なにか…応えて。

身も心も疲弊しきって、
雲海に沈もうとする体。

しかし。
今墜ちてしまえば、全てが無駄になってしまう。
ここまで来てようやく見つけた春も。
ただそれを伝えるためだけに削った命も。
私が生まれてきたことも。

翼を必死に羽ばたかせ、再び高くへと舞い上がろうとする。
羽がその動きに耐えきれず、徐々に砕けてゆく。
空を舞い落ちる羽の欠片が、太陽の光に、赤く、青くきらきらと煌めく。


そして再び妖精は、
どこまでも蒼い空の下、
たったひとりの誰かのために、
命を萌やして花を開く。
春の野辺のように美しく、
咲いては散りゆく悲しい徒花を。


―は…る…
―とど…て…

死に瀕しても、自ら命を削ってまでも、彼女の想いはたった一つ。
彼女はそのために生まれたのだから。
彼女はそのために死ぬはずだったのだから。


もはやその意識は殆ど失われ―
ただ残された想いだけが、空虚な空に
此の世に一つしかない花を咲かせる。
そんな想いも知らず、空はどこまでも静かで。
舞い散る花びらが陽の光に輝き、
雲の海に吸い込まれてゆく様は、
ただただ美しく。

そして乱れ散る花びらの中を、静かに鮮やかな光が閃く。
…彼女は、もう痛みも感じなかっただろうか…
妖精の胸を、赤い光条が刺し貫いていた。
魔法使いの少女から放たれた光が、彼女と妖精を繋ぎ、
空の彼方までまっすぐに伸びている。
光条はほんの少しの間その光を空に残すと、
蒼の中に吸い込まれるように消えていった。

―……た…

妖精の目に一瞬光が戻り…
わずかに微笑むと…
妖精はゆっくりと、落ち始めた。
彼女を妖精として繋ぎ止める力を失い、
その体は次第に毀たれ、光る花びらを舞い散らす。
まるで彼女自身が花であるかのように、
きれいな花びらと春の匂いを残し、
妖精は沈んでいった。
雲の海の底へ。

蒼と白の天地の狭間にたったひとり残った少女は、
妖精が見えなくなった後も白い水面をじっと見つめていた。
花びらの一つが彼女の前にまで舞い上がってきた。
少女はそれを、握りしめる。

少女には届いただろうか、春を告げる声なき声は。
少女には伝わっただろうか、妖精の最後の想いは。

金色の髪をなびかせて、少女は身を翻すと風のように飛び去った。
いつもどおりの春を、取り戻すために。

遮るもの無い、鮮やかな陽の光にきらめいて―
もはや遠く届かなくなった妖精を追うように、
雲の海に一粒のしずくが吸い込まれていった。




リリーホワイト即興SS。
およそ切なさなど見られないところから
切なさを掬い上げる(でっち上げる)のが私は好きだ。
が、彼女は既に切なくなり過ぎていた。
というわけでデッドコピー。



























Your answer lifts the intellgiecne of the debate. Andrew(2012/12/01,19:48)

こめんと
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