季節外れの雪が止んだ。
春の、青く澄み渡った空を、真っ逆さまに少女が落ちてゆく。
その少女は透き通った6枚の、虫のそれのように瑠璃色に薄く輝く羽根をもっていたが、
今やその羽根を動かすことも出来ない程衰弱しているようで、
そのまま真っ直ぐ地面に叩きつけられた。

少女の体には幾枚もの札が突き刺さっていた。
呻き声を上げ、意識を取り戻した彼女はどうにかそれらを引き抜く。
その傷口から血は出ず、それどころか周囲の大気から欠損を再構成しながら
ゆっくりとだが塞がっていった。
だが彼女の傷は深く、癒しきれないようだった。
いや、癒すためにあるべきものが足りなかったのだ。
彼女は妖精だった。氷と凍気を操り、雪と冷気から成る氷精。

「無様ね…」
彼女を見下ろす冷たい紅い瞳。
妖精は声の主を睨みつける。
そこには傘を持った、紅い翼の他は一見普通の少女。
だがそれは少女にはおよそ似つかわしくない威圧感と、
長き年月が凝り固まったような、深く暗い瞳を持っていた。
紅魔館の主にして、運命をも弄ぶ紅き悪魔、レミリア・スカーレット。

「チルノ。あなたでは、絶対に、彼女達に勝てない。」
妖精の表情が一層険しくなる。
「…あんた、わざわざここまで喧嘩を売りに来たの?」
悪魔は微笑むと、チルノに向けてゆっくりと腕をのばす。
身構えるチルノの目の前で手を開くレミリア。
レミリアの掌の上に一片の雪が舞い落ちる。
しかしそれは溶けるどころか冷気を巻き上げながら大きな結晶になると、
空高く舞い上がっていった。
「あなたが望むなら、私はあなたに力を与えられる…
 その運命を、覆す力を。」
雪の結晶を目で追っていたチルノの顔に明らかな迷いが浮かぶ。

だがチルノは再び悪魔を睨みつけると尋ねた。
「どうして。」
悪魔は視線を空に向けながらとぼけたように笑った。
「そうね、気紛れかしら。」
嘲るような笑いがチルノの顔に浮かぶ。
それは悪魔に向けられたものではなく。
「ははっ。気紛れね。そうだろうね。」
チルノは声を上げて笑い続ける。
「あんたらから見れば、さぞ滑稽だろう?」

ぴたり。と笑い声が止まる。
突然、周囲の気温が急激に下がり、地面からは霜が伸び始める。
氷精の周りの空気が白く渦巻き、無数の雹となる。
「あんたなんかに…あたしの気持ちがわかるかっ!」
そしてそれらはチルノの正面に集まると、
レミリアにむけて爆発するかのように射出された。

だがレミリアは一歩も動こうとしなかった。
鋭く尖った雹が数え切れないほど彼女の細い体に叩きつけられる。
あたり一面を真っ白な霧が包み込む。

これだけ当てれば。淡い希望を抱いたチルノの前に、
何事もないかのようにゆっくりと霧の中から現れる悪魔。
「…ほんと、馬鹿なんだから。」
全ての雹が、レミリアの体に一筋の傷も付けることなく、霧散していた。
「…無理なのよ、あなたには。」
「くっ…!」
チルノは空に呪を刻む。氷が凝結し、それは一枚の符となった。
しかし彼女が呪符を発動させる前に、悪魔の手から光がほとばしった。
血の色の光をばら撒きながら、高速で深紅の光弾が迫る。
必死に身を翻し、初弾をかわした氷精を次弾が襲う。
紅弾は姿勢を崩したチルノに命中し、
チルノの腕を呪符ごと、根本から、もぎ取っていった。

澄んだ空に妖精の叫びが響く。悪魔はチルノを地面に叩きつけると、
その華奢な胸をゆっくりと、だが万力のような力を込めて踏みつける。
「こんなにも、無力で。」
チルノは必死に悪魔の足を掻きむしり、あるいは持ち上げようとするが、
それはまるで大理石のように固く冷たく、重くのしかかり、
彼女の力ではかすり傷一つつけることすら出来ない。
「気づいてないの?いくらあなたがもがいても、決して、あなたの望みが叶うことは無いことを。」
チルノの足掻きをよそに、悪魔はいっそう深く、その足を沈めていく。

氷精は抵抗をやめると、喘ぎながら微かな声で呟いた。
「わかってるよ…最初から…」
レミリアの足が止まった。


「あたしは妖精。初雪とともに現れ、雪解けとともに消えるもの。
 多くの生き物が眠り潜む冬に、命を奪う凍気に憩うもの。
 誰もいないこの湖で、生まれ、ただ死んでいくものだった。
 あいつらが来るまでは。」
静かな湖面に、水辺でゆっくりと憩う二つの影が映る。
氷精の体は少なくとも見た目上はいつもの形を取り戻していた。

「…何の意味も、無いことなのに。」
レミリアが呟く。そこからは先程までの威圧的な口ぶりは消え、
憐れみですらなく、むしろ──淋しさのようなものが含まれているようにも聞こえた。
「いらない。何も。意味も目的も。何一つ残せずとも。」
二人を沈黙が包む。静かだが疾い風が湖面を、妖精と悪魔の髪をなびかせ吹き抜けていく。

「…風の精達が騒いでる。黒いのが来たって。」
遠く対岸の方を眺めてチルノが呟く。
「…行くの?」
そう問いかけながらもレミリアは、彼女に引き下がる意志など無いことを知っていた。
誰であろうと彼女を止めることなど出来ないことを。

チルノは無言で空を見上げる。背中の羽根を小さく羽ばたかせると、
彼女の体がゆっくりと浮かび上がった。
「あなた、自分のこと…解ってる?」
レミリアはチルノの目を真っ直ぐに見つめながら尋ねる。
チルノは驚きの表情を見せたが、少しして微笑むと、小さく頷いた。
「それでも、行くの?」
「…私に出来ることは、これだけだから」
レミリアが笑う。
「…本当に、馬鹿ね。」
チルノも不敵に笑う。
「まぁ、見てなって。」
そう言うと妖精は、柔らかな風を纏い、空高く舞い上がっていった。


レミリアが館に戻ると、玄関でメイド長の咲夜が出迎えた。
「お嬢様があれのお相手をなさるとは珍しいですね。」
レミリアの服には氷の結晶がきらめいていた。

「季節外れの馬鹿な妖精。あの娘の時間はもう尽きてしまっているのに。
 おそらくあと数回符を使ったら、もう…」
いつになく感傷的な主の様子を訝しむメイド。
「何故、弱く儚い者達は…こうも不器用なのかしらね。」
「…それ故に、愛おしい、ですか?」
レミリアは少し驚いた顔を咲夜に向けると、ふふ、と小さく笑った。
「…羨ましかったのかしらね。あなたはどうなの?咲夜。」
咲夜は遠い空の、見えるはずもない戦いの方に目を向けた。
懐かしむような、淋しげな目で。
「私は…ずっと昔に忘れてきてしまいましたから。」


…やがて空から静かに雪が降り始める。
その降る様はこれまでで最も激しく、そして静かだった。
どこか灯し火の、最期の光に似て─

「…この季節外れの雪も、見納めですね」
淡い陽光の中を舞う細かな雪と氷の粒は、
きらきらと輝き、か弱い光をあたりに散らした。
雪は地に降り積もることも、たどり着くこともなく消えてゆくのだった。
─その一切の痕跡も残さず。
「……お嬢様?」
レミリアは雪の彼方をただじっと見つめていた。


雪が止んだ。
空は、何事もなかったかのように澄み渡っていた。
レミリアの服についた雪の結晶も、
いつの間にか、消えて無くなっていた。































こめんと
Comment
名前Name(任意)
隠すHidden